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第1回憲法学特殊講義(首相靖国参拝と憲法)

第1回~第3回の3回に分けて、ゼミレポート「小泉首相靖国神社参拝訴訟福岡地裁判決を読む~首相の靖国神社参拝と日本国憲法~」を掲載します。

憲法ゼミのレポートですが、今回は憲法はあまりからめなくて良いとのお達しだったので、思いつくままに書き連ねました。
全部で14000字余と少々長いですが、ご笑覧下さい。

ゼミレポート
小泉首相靖国神社参拝訴訟福岡地裁判決を読む 
~首相の靖国神社参拝と日本国憲法~


1.はじめに
 平成13年8月13日、小泉純一郎首相は靖国神社を参拝した。首相は靖国神社参拝を公約にしており、それを実行した形となった。
 大方の予想通り、この参拝に対して中華人民共和国及び大韓民国、北朝鮮は反発。国内からも批判の声があがり、ついには訴訟にまで発展した。
 今回取り上げる小泉首相靖国神社参拝訴訟福岡地裁判決は、戦没者の遺族、仏教僧侶・信徒、キリスト教神父・牧師・信徒、在日朝鮮人を原告、小泉純一郎首相および国を被告とする損害賠償請求訴訟の判決で、結局請求はしりぞけられたものの、文中で首相の靖国神社参拝を明確に「違憲」と宣言した、画期的なものである。
 このレポートは、靖国神社とは何か、日本国憲法の条文で保障されているとされる「政教分離」とは何かを見たうえで、過去の判例の動向をつかみ、それらを踏まえて福岡地裁判決を読み解くことを目的とするものである。

2.靖国神社とは何か
1)そもそも、靖国神社とはどのような神社なのだろうか。マスコミが報じる「A級戦犯合祀」といった情報ばかりが先行し、靖国神社がいかなる経緯をもって建立され、いかなる祭神を祀っているかはあまり知られていないため、記すことにする。
 靖国神社の起源は、明治2年、明治天皇の勅願によって戊辰戦争の死者を祀るために建立された「東京招魂社」にある。その後明治12年、『「国を安らかでおだやかな平安にして、いつまでも平和な国につくりあげよう」という天皇陛下の深い大御心がこめられ』た「靖国」の称号を用い、「靖国神社」と改称された。
 社格制度の下、靖国神社は別格官幣社とされ、内務省および陸・海軍省の共同管轄となった(その後、陸・海軍省の共同管轄)。
 なお、大日本帝国において神道は「事実上」国教とされ、国民に対して神社参拝が強制されたり、キリスト教や、新興宗教に対する弾圧が行われたりした。
 第二次大戦での日本の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本に宛てた「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(昭和20年12月15日。いわゆる神道指令)において、『宗教ヲ国家ヨリ分離』する、すなわち神道の国家からの分離が図られ、昭和22年の宗教法人令改正に伴って靖国神社は単体の宗教法人として東京都に登録された。
 その後昭和26年の宗教法人法の公布施行にあたって、靖国神社は宗教法人として登録され、現在に至る。
 祭神は、先述のように戊辰戦争での死者をはじめ、ペリー来航以降明治維新までの国内の戦乱での死者、西南戦争以降は『外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達』である。その数は以下のとおりである。
■靖国神社御祭神戦役・事変別柱数■(靖国神社公式HPより)
明治維新 7,751 西南戦争 6,971
日清戦争 13,619 台湾征討 1,130
北清事変 1,256 日露戦争 88,429
第一次世界大戦 4,850 済南事変 185
満洲事変 17,176 支那事変 191,243
大東亜戦争 2,133,885 合計 2,466,495
(平成15年10月17日現在)
 なお祭神は軍人ばかりにとどまらず、幕末期に活躍した坂本龍馬や高杉晋作、「大東亜戦争」中に沖縄で亡くなった「ひめゆり部隊」や「鉄血勤皇隊」の学生のような軍属・準軍属、米軍潜水艦に撃沈された疎開船「対馬丸」に乗っていた児童、ソ連の樺太侵攻時に自決した女性電話交換手、勤労奉仕中に空襲で死亡した学生などの民間人も含まれている。
 また境内には、諸外国の戦没者を祀る鎮魂社も建立されている。
2)それでは、小泉首相による本件参拝に至るまでにはどのような経緯があったのだろうか。日本国憲法公布以降現在までの歴史を簡単にたどることにする。
ア)日本国憲法制定からまだ間もない昭和26年10月、靖国神社と護国神社で開催された例大祭に吉田茂首相が参拝した。現憲法下では初となる。なお吉田首相は同29年まで毎年参拝。吉田首相に続き、岸信介(33~34年、各年に参拝)、池田隼人(35~38年、同)、佐藤栄作(40~47年、同)、田中角栄(48~49年、同)の各首相が靖国神社に参拝しているが、この間問題は起きず。
イ)翌27年、初の政府主催全国戦没者追悼式が開催される。全国戦没者遺族第四回全国大会で「英霊の祭祀は国の責任で行なうこと」が決議され、以後靖国神社の国家護持運動の基礎となる。同年、天皇皇后両陛下御親拝(御親拝は29、32、34、40、50年にも)。
ウ)34年、法務死(いわゆる戦犯)の合祀が行われる。
エ)44年6月、靖国神社の国家護持を目的にした靖国神社法案が議員立の形で国会に始めて提出(第61国会)、8月5日に審議未了で廃案される。同案は以後4回提出されるが、いずれも廃案となり、自由民主党は法制化を断念。
オ)50年、内閣委員長藤尾正行、「戦没者等の慰霊表敬に関する法案」提出。天皇及び国家機関の長にある者の公式参拝、外国使節の公式表敬訪問、自衛隊儀仗兵の参列参拝、警察官や消防士の合祀の案を発表。
同年終戦記念日に三木武夫首相参拝。自民党総裁専用車で公職者を随行させず靖国神社を訪れ、「三木武夫」とのみ記帳、玉串料は私費で支出し、「私的な参拝である」と発言。これを機に、マスコミは参拝する首相に「公式か私的か」「玉串料は私費支出か」を問うようになる。
政府は私的参拝の基準として、公用車の不使用、玉串料の私費支出、名前のみの記帳、公職者の随行なしを挙げる。
コ)52年、福田赳夫首相参拝。翌年は終戦記念日に参拝、公用車を使用し、公職者を随行させ、「内閣総理大臣福田赳夫」と記帳したが、玉串料は私費で支出。
 政府は、私人としての参拝は信教の自由により保障可能、政府の行事として参拝を決定し、あるいは玉串料を公費支出しない限りは私的行為であるとし、また三木武夫の「私的参拝四条件」を政府が統一見解として認めたことはないと否定。
サ)54年、大平正芳首相参拝(翌年も)。
シ)55年、鈴木善幸首相参拝(鈴木首相は57年まで毎年参拝)。同年、奥野法務大臣が参院法務委員会で「憲法20条で、国は宗教的活動をしてはならないと書いてあるが、靖国神社に参拝することを禁止しているとは私には受け取れない。私人の資格で参拝といわざるを得ないようなぎこちない姿を解決してもらえないか」と発言。同発言に対し政府は国務大臣の資格での靖国神社参拝は憲法20条3項との関係で問題がある、政府としては国務大臣としての靖国神社参拝を合憲、違憲とも断定していないが、違憲ではないかとの疑いをなお否定できない、国務大臣としての参拝は差し控えるという内容の統一見解を発表。
ス)56年、「みんなで靖国神社に参拝する議員の会」(会長 竹下登)参拝、以後恒例となる。
セ)58年、中曽根康弘首相春季例大祭、終戦記念日、秋季例大祭参拝(その後昭和60年終戦記念日まで、正月、春季例大祭、終戦記念日、秋季例大祭時に参拝)。「内閣総理大臣たる中曽根康弘」として参拝した旨述べる。また公的参拝の合憲性を根拠付けるため自民党に検討を指示、自民党は公的機関の地位にある者が神社仏閣を参拝して戦没者を称え、玉串料などを公費支出しても違憲ではない旨の見解をまとめた。翌年、政府は私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)を設置、検討を委ねた。
ソ)60年、靖国懇報告書発表。内閣総理大臣その他国務大臣の靖国神社参拝を公的資格で行う参拝と定義づけ、戦没者追悼は宗教や国家を超越した普遍的情感であり、また国民や遺族の多くは靖国神社を日本における戦没者追悼の中心施設であると考えており、公式参拝を望んでいるものと認められるとして、政教分離原則に関する憲法規定に反することなく、国民からも支持される何らかの形で公式参拝する方法を検討すべきとの見解を示す。
タ)同年終戦記念日、中曽根康弘首相参拝。公用車を使用し、官房長官及び厚生大臣を随行、「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳。中国、韓国政府が初めて抗議、その他野党から猛反発を受ける。
チ)平成8年、橋本龍太郎首相参拝。
ツ)13年4月18日、小泉純一郎、自民党総裁選討論会において終戦記念日の靖国神社参拝を表明。同月25日、自民党総裁就任記者会見においても同旨の発言。また5月14日、衆院予算委員会において、依然として靖国神社に参拝するつもりである旨及び靖国神社参拝は違憲だとは思わない旨発言。中国政府や韓国政府、及び国内からの反発もあり、参拝は8月13日に行われた。


次回に続く


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